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Artist Interview vol.1 隅地茉歩


―隅地さんがダンスを始めたきっかけは何ですか?

 これは、あちこちでお話しさせていただいていることなんですが、はじめは「痩せるためのみ」で、「踊る」ということが自分の人生の中で近くに来ることなど全く予測していませんでした。元々私は、「源氏物語」の研究者になるつもりでした。けれども、大学院を出てすぐに研究者として生計を立てるのは難しく、まずは自分の大学の付属高校の国語科の非常勤教師をやりつつ論文を書いたりしていました。すると、食べる食べる読む、食べる食べる書く、食べる食べる食べる書く、食べる食べる食べる読む、という生活スタイルになってしまって、どんどん体重も増えていきました。そこで、「これはいかん」と、痩せるためにダンス教室に通い始めたというのがダンスを始めたきっかけですね。

―その頃、ダンス教室に通いながら舞台に立つということをしていましたか?

 いいえ、最初はそんなことも予想できないですよね。ただ、習い始めるとすごく楽しくて、はじめは週1日だったのが、3日4日5日6日・・・になって、気づいたら一週間、習いに行ってない日はないみたいな状態になっていました。

 当時、2人の先生を4カ所のスタジオに追いかけて習いに行くといった日々を送っていたのですが、そうしていると舞台に立ちたくなってきましたね。そのうちの一人の先生は、定期公演をされていて、「(公演に)出たい!」ということになったんですが、私は、出たいと思えばそれだけで勝手に公演に出演できるとぼんやりと思っていたんですよね。そしたら、オーディションがあり、見事に落とされてしまいました。一晩さめざめと泣いて、でも泣いていても仕方ないので、「通った人と落ちた私との違いってどこにあるんだろう?」って考えました。よく見渡してみると、通った人は全員小さな頃からバレエをやっていた人たちだったんですね。私は大人になってから踊りと出会って、クラシックバレエを幼少の頃から習って、ということではなかったので、その壁に最初にぶち当たりました。そこで、今からバレエをやるしかないと思いました。ちょうど、教え子にイギリスにバレエ留学することが決まっていた生徒がいたので、古典の授業の後に彼女を捕まえて、「最短でバレエがうまくなる方法を教えて」と懇願し、「悠長にバレエ教室に行ってる場合ではないですよ、先生」と彼女に言われ、彼女の個人レッスンの先生(イギリス人)を紹介してもらいました。

―国語の教師をして研究をしつつ、バレエも習いながらの生活を送っている中、作品をつくることになったきっかけとは何ですか?

 セレノグラフィカを結成したのが1997年。ダンスと出会ったのはもっと前で、ずっと国語教師をしながら先生のもとでダンサーとして踊っているという期間が結構ありました。そうこうしているうちに阿比留さん(セレノグラフィカ)と出会うのですが、出会ったのは、セレノグラフィカの結成から遡ること3年、ちょうど京都の建都1200年という年で、あちこちで催物があり、その一つとして、京都シティフィルコーラスという合唱団と京都交響楽団とのフルオーケストラ、フルコーラス、創作バレエという公演が京都会館(現ロームシアター)であり、それに出演したんです。

 私が習っていたイギリス人の先生がそのバレエの振付だったんですよ。はじめはダンサーとしてではなく、リハーサルアシスタントとして同行していました。ダンサーの人たちに身体を温めてもらうためにストーブをたいたり、音楽をかけたりなどしていました。そしたら、あるダンサーが半月板を損傷してしまって。そこでダンサーの補充ということになるのですが、「リハーサル風景をずっと見ていたのだから、振付を覚えているはず。踊ってみなさい。」と言われ踊りました。

 一応、見様見真似で順番だけは身体に入っていたんです。それで出演が決まったわけです。その作品の中で男女で組むパートがたくさんあったのですが、そこで阿比留さんと組んだというのが、阿比留さんとの出会いでした。公演が終わって、阿比留さんから「連絡先教えてもらえますか?今後もお話したりしません?」と言われて、一応連絡先は渡したのですが、内心「ないよね」と思っていたんです(笑)。ところが、その日記念撮影のために持参していた父親の形見のカメラを、打ち上げ会場で阿比留さんに預けたまま帰宅してしまったんですよ。で、「あれは取り戻さなアカン!」と思い、阿比留さんに連絡して再び会うことになりました。思えば父親の取り持ってくれた縁なんでしょうね。それから、阿比留さんと色々とダンスの話をしたり、公演にも一緒に足を運ぶようになったんです。

 当時は、海外からいろんなカンパニーが次から次へと来日していた時代で、アルビン・エイリー、モーリス·べジャール、リンゼイ・ケンプ、マース·カニングハムなど、勅使川原三郎や山海塾もその頃に初めて観ました。自分はまだ前の先生のところに所属していましたが、そういう作品をたくさん観るようになると、先生の創作の現場で「あれ?なんでここで照明の変化がないんだろう?」とか「もっとちがうシーン展開の方が面白いのではないだろうか?」ということを思うようになってきてしまったんですね。外のものに触れていなかった頃は、作品の中ではとにかく、端より真ん中、後ろより前の列で踊って、先生に褒めてもらえることを目標に、ある種のヒエラルキーの中できっちりと駒として踊っていましたが、どこか「あれ?」と思い始めたんです。自分でも創ってみたくなったということですね。その頃の家庭の事情とも重なって、独立することを決意し、セレノグラフィカを結成しました。

―セレノグラフィカを結成し今年で19年になりますが、ずっと続けてこられているモチベーションというのは一体何でしょうか?

 うーん、モチベーションですか。多分、きっと飽きっぽいと思うんですよね。というより、関心が次のものへ移り変わっていっているからではないでしょうか。ずっと同じスタイルを守っていかなければいけないとか、同じことをしないといけないというのであれば、多分辞めていただろうなと思います。

 あることがある程度までできるようになったらそれをいったん止めて、それまでやっていなかったことにどんどんと無責任に移り変わっていいんだなということは、ひとつありましたね。今振り返ってもスタイルが変遷しているんですよね。たとえば、パートナリングと言って、私が阿比留さんを持ち上げたり転がしたり、引っ張ったり、その上を跳んだりなど結構打ち身青あざ系のダンスを熱心にやっていた頃もあるのですが、そういう事は今はやっていないですし、一時期はとにかくピッチリとユニゾンが揃うというようなことに血道をあげてやっていた時期もありました。今でもユニゾンは使いますが、そこまでではないですね。

 はじめの10年は、とにかく誰もやっていない新しいことをやりたい、着想にしろ何にしろ、初めてのものを世に問いたいと思ってやっていましたが、それも変化してきましたね。そういう事を第一義に置くよりも、観た人が長く心に留めておけるようなものとか、あとは、どこかにちゃんと「幸福感」のあるものを創りたいというところがあります。もちろん独自のやり方でです。

 阿比留さんと長続きしているのは、ダンス以外のことでは合わない意見や考えも、ダンスのことに関しては、不思議と気が合う。思想や哲学というほど大げさなことではないですが、根幹は通じ合う。間違っていない人間と組んだかなと思いますね。

 あとは、阿比留さんも私も同じで、お互い不器用ということもありますが、「ダンスにしかできないことがある」と信じていることです。たとえ文章で書けることがあったとしても、私たちにとっては十分じゃない。だからと言ってこれまでに創ったダンスでものすごく満足しているかと聞かれると、当然まだまだそうではないのですが、それにしても自分たちの中で「ダンスを創る」「ダンスを踊る」ということを超えてくれる充実が他に存在しない、他のあらゆることと質の違う営みだということがあるので続けて来られているという感じです。

―では、隅地さんが作品づくりにおいてダンサーに求めることは何でしょう?

 うーん、「正直」であることですかね。隠すことは弱くなることだし。踊っていく中ではもちろん「なんでこんな風にしかならないんだろう」とか「よっしゃ、これだ!」ということの揺れ動きの連続が常にあると思うんですよ、おそらく。自分がジャッジするということだけではなく、他人の評価のただ中に出ていくということは、その波にさらされることです。けれども、自分を過大評価したり卑下したりして一喜一憂することを出来るだけしないでいて欲しいなと言うところはあります。難しいことかも知れませんが。どこか飄々として、何が起きてもちょっと笑い飛ばしながらいけるタフネスがあれば、一緒に面白いことが出来るんじゃないかなと思いますね。ある意味それは自意識に翻弄されない集中力を持っているということですから。

―隅地さんが、この人と一緒につくってみたいというダンサーとは?

 例えば、「これは自分にとって難題だな~」ということをオーダーされた時に、それを面白がれる人ですね。自分はこんなダンサーだと決めてしまっているような人も中にはいて、「私はこういうダンサーですから」と言って、枠というかテリトリーをつくった途端に、「一緒に経験のないことをしましょう」という前提を共有できなくなってしまいますよね。本当であれば覗けるかもしれない景色を自分から「見ません」とシャットダウンすることになりますよね。どんなトンチンカンに見えるお題であったとしても、「もう笑うしかないね」と言いながらもやってくれる人は、魅力的ですね。

―クリエーションを進めていく上で、振付家とダンサーとの関係性について何か気を付けていることはありますか?

 クリエーションの場において、振付家としてダンサーとどういう関係性をスタートさせ、それをどう操縦していくかということ、リハーサルの場をどうやって作っていくかということはとても大切なことですよね。責任がありますから。踊り手の言うことは当然聞いてあげなければいけないのですが、では、野放しでいいのかと言うとそうではなくて、「創り手の名のもとにあなたをこう見せたいと思っているし、あなたすらも気が付いていないところを私は取り出そうとしています」というように、踊り手が信頼できることを振付家は示したいし、毅然としていたい。例えそのままを言葉で言わなくてもです。お互いに対してちゃんと敬意を持つのは意外に難しい。でもだからこそ取り組みがいがありますね。振付家とダンサーとの関係において何らかのルール作りは必要ですよね。それは相手が変われば変わる度に変わることだろうし、作品が変われば変わることだろうし、同じ作家でも変化していくだろうし。

 あと、これは、5期生の方たちへお伝えしておきたいなと言うことがあるのですが、クリエーション現場において「言葉にすることがいいこと」と、「敢えてしないことがいいことや、いい時」というのが混在すると思うんですね。なんでもかんでも喋ってみなさい、言葉にしろということではないような気がしてきています。私は、身体を動かしている場において言葉が持っている力というのは、普段おしゃべりしているときの言葉の力とちょっと違うと思っています。すぐに「あ、こういうことですね」と簡単に言葉が投げ入れられた時に、その場が大きく影響されることがあるんですよ。恐ろしいことでもあります。創作の場にいる全員が注意深くありたいですね。ダンサーから言葉をもらうこともあると思いますが、すぐにパッと飛びつかず、かと言ってすぐに否定もせずという、自分の中でもらったものをちゃんと待てる、保てる時間というのは大事かなという気がします。創っているともちろん早く答えが欲しいし、早く自分をどこかへ連れていきたいという衝動に駆られがちだと思うのですが、それを振付家が踏み留まれるということも大切だと思っています。

―今期は、大きくプログラムを変更して振付家とダンサーコースを分けなかったのですが・・・

 大英断だと思います!既にキャリアをスタートしている人でもやりたい人はたくさんいるでしょうね。

―では、「行きたい!」を「行こう!」という風になるために、迷っている人たちの背中を押してもらえるようなメッセージなどいただけますか?

 「この道を通ることほど、自分を知ることになる道はないだろう」という感じでしょうか。

 毎月強烈な面子の振付家のクリエーションが続く中、翻弄されることもあると思います。でも、中途半端に浅く掘られたのでは分からないことがありますよね。徹底的に攻め込まれることもあるだろうと思うのですが、「ダンサーと思ってたけど、どうなんだろう」とある時思ったり、「自分は創り手だと思ってたけど、自分はからっきしちがうわ」という驚きを経て、それが全部終わってヨレヨレになった果てに、「でもやっぱりやりたい」「私にはこれが残った」ということが浮き彫りになるだろうと思います。

 生半可な自己認識とは別次元の地平。飛び込む覚悟があれば、そこから得るものは計り知れず大きいでしょう。ってことですよね。もちろん、息の長い作家や踊り手に育っていってほしいです。ここは最終地点ではなく出発の地ですから。

取材協力:喫茶 初駒

神戸市長田区駒ヶ林町1丁目5-13

OPEN 10:00 - 16:00 / 定休日:金土日

(聞き手:田中幸恵、写真:岩本順平)

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