さっと炒めた家に、コショウひとふり
ボリス・ヴィアンの『日々の泡』を読み終わった。
最近あまりにも偶然に色々なところで目にするタイトルだったので、
これは私の第六感が求めているに違いないzo!と手にしたのだった。
「20世紀の恋愛小説中もっとも悲痛な小説」だと評されている、「日々の泡」。
そんなに沢山の恋愛小説は知らないけれど、多分、その通りなんだろうと思った。
冒頭から続く幻想的でシュールな描写は、現実よりもゲンジツ的な“生活”の儚さに蝕まれていて、私の肺には深紅のゼラニウムが咲いてしまったョ。
デューク・エリントンの「クロエ」という音楽を、私は一生忘れない。
◇◇◇◇◇
このダンス留学が終わったあとの“生活”のことを、最近考える。
私はこれから、もう少し学生生活を続けるので、
今住んでいる神戸の家を引き払って、大学の近くに移り住む。
高校を卒業して実家を出てから、もう次で5回目の家移りになる。
途中で南国に留学したのを加味したとしても、さすがに多めかなと思う。
私は、どうすれば家のなかで心穏やかに風通しのよい生活を送れるか、
ということをいつも、いつの間にか、考えている。
だから引っ越しは、あたらしい“生活”の仕方を試すための絶好のチャンスだ。
毎回、緊張とワクワクと落ち着かなさをどうにか宥めて、
あたらしい景色に馴染む努力をする。
次に住む家の、どこにどんな物を置くか、
どこで食事をとって、どの面積を使って眠るか。
毎日玄関をあちらへこちらへとくぐってゆく自分の姿を想像する。
訪問者たちがやってくるのも見える。
私から招いた人も、けして招いてはいない人も、
私ひとりだけの生活に、突然チャイムを鳴らしてくる。
季節や時間帯によって、家はまったく様子を変える。
寒い冬の日は乾燥していて、家と一緒に私の身体もきしみだす。
ヨガマットの上で丸くなったまま眠っている自分の姿。
夏の夜、暑くて何度も目覚めてしまう、寝汗の感触。
生活という重苦しい海に息が詰まりそうになるのは、
多分うす青い日光しか浴びていないとき。
透明がかった黄色い日差しを浴びれば、大抵のことはうまくいく気がする。
しかしどの季節も、家にいる私はわりと基本的に寂しい。
「心穏やかで風通しのよい」、満たされている生活なんて、
おそらく今まで満足に叶ったためしがないから、求め続けているのだ。
(そもそも穏やかなときには、その平和には気が付かない。)
灯りがカーテンから家の外へ漏れ出していることが恐ろしい夜がある。
ひとりで守ってゆくしかない、わが家。
それでも、水道やガスや電気が通っていることに気が付き、
別にひとりで生きていけているわけではないことを知る。
そんなときは、だから、家のなかでふんふんと踊ってみる。
かなり控えめに、お気に入りのドレスコーズのアルバムを流す。
私にだけようやく聞こえる音量。
踊り疲れたら、積み上げてある本を手にとってパラパラとめくって、戻す。
あるいは、もう5回も6回も繰り返し読んでいる漫画のラストで泣く。
“中島みゆき”のうたを口ずさんでみる。
みゆきチャンのサビシサがなんとなく、私のシャツのアイロンがけをしてくれる。
こんな気持ちになれるんだから、なかなか捨てたもんじゃないな、ウン、宇宙も。
と、だだっ広い空と狭い世間に思いを馳せながら、
ボウッとしているうちにいつの間にか眠りにつく。
なんだかんだ、これを「平和」というんですね、ノダさん。
ああ。 そうか。
“生活”を考えることと“踊り”のことを考えることは、
私のなかではかなり連動している。
多分、わが家に「心穏やかで風通しのよい生活」が実現されるまで、
私は“踊り”を求め続けるだろうと思う。