食パンくわえた曲がり角
こんばんは。野田容瑛です。
しばらくご無沙汰してしまいました。不覚!
2月は本当に、あっと言う間もなく逃げていってしまった感覚です。
成果上演まで、あと2週間。
今日は、驚くほど寒くなかった!
稽古終わりに劇場の外を歩いていると、ふわァっと海の匂いがして、
私は実家を思い出しました。
考えてみると、私はずっと海のすぐそばで育ってきたナ・・・
定期的に海鮮丼が食べたくなります。
さて、最近の稽古場は。
ひたすらにただひたすらに「振付」を踊っています。
昨日は、「振付を共有する」ということに、私はある種の救いのようなものを感じました。
この作品には、それぞれのダンサーが自分で考えた振付があります。
つくるときに私がディレクションをしてはいるものの、
ダンサー自身の身体から出てきた動きがメインです。
ショーイング公演のときには、その振付を踊るのは考えた本人だけで、
振付は完全にその人固有のものである、という見せ方をしていました。
今回、成果上演に向けては、その個人の振付を全員で共有しているところ。
振り写しの場面を見ていると、ユニゾンの出現にハッと息をのんだり、ホッとしたりします。
揃った動きは、見ていてやっぱり、なんだか気持ちがいいものです。
ところで。
他の人が次にどう動くか、を把握しているというのは、すごいことだと思います。
前にいる人が次に右へ行くと分かっているから、自分は脚を前へ蹴りあげることができる。
パートナーが真上へジャンプすると分かっているから、持ち上げて支えることができる。
振付という了解さえあれば、いろんなことができます。
相手がぶつかってくると分かっているから、真正面からぶつかることができる。
相手がそこで転ぶとわかっているから、それを敢えて、無視することもできる。
だけどよくよく考えたら、「他人がどう動くか」なんて、普通わからないのではないか。(自分がどう動くかだって、本当にわかっているのか、?)
前から歩いてきたおばあちゃんが、すれ違いざまに予言めいたことを言ってくる。
廊下の曲がり角で転校生とぶつかって、なにかが始まる。
お母さんが、今夜はすき焼きよ、と言ってくる、アジの塩焼きとかの気分だったのに。
反対に、他人の行動を“わかっている”のは、
たとえば信号機の前。たとえばレジでお釣りをもらうということ。
たとえば毎朝7時26分の電車に乗って通勤するということ。
こういうのは、社会的な、または個人的な約束事であって、
個人の毎瞬毎瞬の行動に対して確実なわけでは、けしてない。
そう、“振付”自体は、けっして個人の身体を操れるものではない。
その振付を行使しているのは、その人自身なのですね。
“振付”という決まり事が共有されているのを目にして、少しホッとした私は、
良くも悪くも、社会というもののなかで生きてきたのだなァと思ったのです。
振付があるという“特殊さ”。
どうして、ダンサーたちはそこで右ひじを曲げるのか?
振付を操作することが、ダンスを振り付ける/演出する/踊るということなのか。
ルールって、破られるためにあるの?(そんな言葉を聞くことがありますね)
では振付は、裏切るためにあるのだ、ということもできる?
ふむ。
また長文を書いてしまった。
明日も、メンバーみんなで振付を操り、操られようと思います。
そうしてできたダンスを、ぜひアナタに上演の場で目撃して頂きたいと、
心から願っています。