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食パンくわえた曲がり角

  • 野田容瑛
  • 2016年3月4日
  • 読了時間: 3分

こんばんは。野田容瑛です。

しばらくご無沙汰してしまいました。不覚!

2月は本当に、あっと言う間もなく逃げていってしまった感覚です。

成果上演まで、あと2週間。

今日は、驚くほど寒くなかった!

稽古終わりに劇場の外を歩いていると、ふわァっと海の匂いがして、

私は実家を思い出しました。

考えてみると、私はずっと海のすぐそばで育ってきたナ・・・

定期的に海鮮丼が食べたくなります。

さて、最近の稽古場は。

ひたすらにただひたすらに「振付」を踊っています。

昨日は、「振付を共有する」ということに、私はある種の救いのようなものを感じました。

この作品には、それぞれのダンサーが自分で考えた振付があります。

つくるときに私がディレクションをしてはいるものの、

ダンサー自身の身体から出てきた動きがメインです。

ショーイング公演のときには、その振付を踊るのは考えた本人だけで、

振付は完全にその人固有のものである、という見せ方をしていました。

今回、成果上演に向けては、その個人の振付を全員で共有しているところ。

振り写しの場面を見ていると、ユニゾンの出現にハッと息をのんだり、ホッとしたりします。

揃った動きは、見ていてやっぱり、なんだか気持ちがいいものです。

ところで。

他の人が次にどう動くか、を把握しているというのは、すごいことだと思います。

前にいる人が次に右へ行くと分かっているから、自分は脚を前へ蹴りあげることができる。

パートナーが真上へジャンプすると分かっているから、持ち上げて支えることができる。

振付という了解さえあれば、いろんなことができます。

相手がぶつかってくると分かっているから、真正面からぶつかることができる。

相手がそこで転ぶとわかっているから、それを敢えて、無視することもできる。

だけどよくよく考えたら、「他人がどう動くか」なんて、普通わからないのではないか。(自分がどう動くかだって、本当にわかっているのか、?)

前から歩いてきたおばあちゃんが、すれ違いざまに予言めいたことを言ってくる。

廊下の曲がり角で転校生とぶつかって、なにかが始まる。

お母さんが、今夜はすき焼きよ、と言ってくる、アジの塩焼きとかの気分だったのに。

反対に、他人の行動を“わかっている”のは、

たとえば信号機の前。たとえばレジでお釣りをもらうということ。

たとえば毎朝7時26分の電車に乗って通勤するということ。

こういうのは、社会的な、または個人的な約束事であって、

個人の毎瞬毎瞬の行動に対して確実なわけでは、けしてない。

そう、“振付”自体は、けっして個人の身体を操れるものではない。

その振付を行使しているのは、その人自身なのですね。

“振付”という決まり事が共有されているのを目にして、少しホッとした私は、

良くも悪くも、社会というもののなかで生きてきたのだなァと思ったのです。

振付があるという“特殊さ”。

どうして、ダンサーたちはそこで右ひじを曲げるのか?

振付を操作することが、ダンスを振り付ける/演出する/踊るということなのか。

ルールって、破られるためにあるの?(そんな言葉を聞くことがありますね)

では振付は、裏切るためにあるのだ、ということもできる?

ふむ。

また長文を書いてしまった。

明日も、メンバーみんなで振付を操り、操られようと思います。

そうしてできたダンスを、ぜひアナタに上演の場で目撃して頂きたいと、

心から願っています。

 
 
 

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